Introducing … The Human Being 人間として紹介される
ある人は、飢餓がなくなればそれで大丈夫、平和がやってくるだろうと考えています。またある人は貧困がなくなれば平和が訪れると考えます。また他の人は、「いやいやいや、戦争の終焉こそが平和だろう」と考えます。
これに関連した小話をしましょう。あるとき、4人の盲人が通りを歩いていると、象がやってくるのが聞こえました。インドでは、象に鈴をつけて、象が来たことを知らせるという習慣があります。すぐに、象使いが「どいたどいた、象が通るよ!」と言うのが聞こえました。
4人は立ち止まって男に言いました。「我々は目が見えません。象を見たことがないんです。もし差し支えなければ、象に触らせてもらえませんか?」象使いは「もちろんさ。好きなだけ触ってくれ。」と言って、象を止めました。一人の盲人は足に触れ、一人は後ろに回ってしっぽに、もう一人は鼻に触れ、最後の一人は耳を掴みました。象使いは彼らがなんて言うのか興味津々です。なぜなら、彼らはそれぞれ足、しっぽ、鼻、耳にしか触れていないからです。
そこで、彼らに「よかったら、象ってどんな生き物なのか教えてくれないか?」と聞きました。耳をつかんでいたものは「あ、それはバナナの葉っぱみたいなものですね」と答えます。足に触れたものは「何を言っている。木の幹みたいなものだよ」象の鼻をつかんだものは「ちがうちがう。ガジュマルの木から垂れ下がる根っこみたいなもんだ」そして最後の一人は「ただ、端っこにふさふさのついたしっぽみたいなもんだよ」と言います。
もちろん、これは単なる物語です。でも、平和のこととなると、この話と同じようなものです。誰もが平和に対して、自分なりの必要性、関わりを持っています。でも、それは変わっていきます。では、平和はどうなってしまうのでしょう。
さて、私の言う平和の意味をはっきりさせたいと思います。基本からいきましょう。あなたは人間である、ということです。あなたは、人間として紹介されたことはありますか?
私は、多くの呼ばれ方をします。人は私を「彼はラワット機長です」とか「平和について話すプレムラワットさんです」と紹介します。そんな具合に続きます。でも、誰が私を人間として紹介するのでしょうか?私たちはお互いを紹介しあうとき、「私は誰それで、何をして、かにをして」と色々な言われ方をしてきました。それは別にいいんです。でも、誰が人間として紹介されるのでしょうか?牛には、ロバの見分けはつかないかもしれません。でも他の牛の見分けはつきます。魚はカラスの見分けはできないかもしれませんが、他の魚の見分けはつきます。他の人間以外の誰が、あなたや私を人間として見てくれるのでしょうか?
人間を人間として見るには、とても特別な目が必要になります。それは、シンプルで純粋な目です。痛みをあるがままに見る目が必要です。誰も自分の痛みなど見たくはありません。自分は完璧で、問題などないと思いたいのです。残念ながら、問題だらけなんです。それは、飼い猫があなたのことをきいてくれないような単純なことかもしれません。それか、奥さんがあなたを嫌ったり、仕事が思うようにいかないことのように複雑なものかもしれません。身の回りではそんなことが起きています。
では、誰が平和を必要としているのでしょうか?人間には平和が必要です。色々な肩書きをおろせば、ただ、あなた「人間」がいます。その人間に平和が必要なんです。あなたや私。本物の平和。想像上の平和ではありません。
自分が人間であると気づいたときに、平和について本気で理解し始めます。そのとき初めて、他の誰かの平和ではなく、自分自身の平和とつながりを持つのです。私が幼かった頃、みんな「世界には平和が必要だ」と言っていました。私はあなたに平和が必要なんだと言いました。みんなそれを聞いて驚きました。「自分に平和が必要だって?」。その通り。
平和の必要性は社会だけのものではありません。それは自分たちが誰なのかという元となるものを見つけることです。もし、自分の中に平和があると、そしてそれに対する渇きがあると理解したなら、平和を認識する大きな一歩をとったことになります。
何が起きようとも、なにがやって来ようとも、平和への欲求は自分の中にあります。それは現実です。平和の理由はそこにあります。平和を実現するための方法もまたそこにあるでしょう。
Prem Rawat

©The Prem Rawat Foundation
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